「あんたもう5年以上たったから癌ちゃう。好きなように生きろ」
と禿げの医者は言った。先日、病院に結果を聞きに行ったのだ。
5分診療であった。
茫然としつつも大嫌いな病院を走って出ていった。スキップなどしない。そこまで楽観はしない。また半年後に検診に来るが毎回こんな調子で終わるのだろう。
きっと今回ほどはビクビクしない。たぶん。
速攻、その日のうちに毎月契約していたクソ高い癌保険に解約の電話をした。癌経験者のための掛け捨て保険である。総額50万円、くそう。でもこれが今までの安心代だったわけだ。
以前、会った二人。知り合いの胃がんだったご婦人のわきで、10年は病人って顔してたんだよ、こいつは。と旦那さんに言われていて微笑んでいた。結構なステージだったらしいので、ご夫妻の10年を思うと言葉もない。
私の父親は20年前に60歳の肝臓癌で逝ってしまった。その光景を体験したとき
人はあっという間に死ぬ どんな夢や希望やビジョンがあっても死ぬときは死ぬ。生きているから使命があるから生かされたなんてことはない。かといって死んだから前世が悪かったとか一切ない。そんなのカンケーねえ。死ぬときはア!という間に死ぬ。行いが良かった悪かった信仰心だと心がけだのわけない。ただ運の問題だ。
という諦念になった。
自分もその範疇の中にあるのだ。未だ。
今後は墓場まで、できる限り人さまに迷惑をかけずかつ出来る範囲で人助けをできるような生活がしたいのだ。
で、ブログ名を「更年期から墓場まで」と改題した。今後の老後に向けての取り組みを書いていきたい。たぶん、今までと変わらず食べ物と健康のボヤキがもっぱらですが。
何かを残したい、とは思わない。人の残すものなどたかがしれている。どんな絵も文章も仕事も、1年も人は覚えてはいない。才能のある有名人でも、追悼の番組がその日に持たれてそれきりだ。
何かを残す、なんて、誰もあんたに何も残してなんて頼んでない。特に、承認欲求の塊で作ったものなど、愛情飢餓の腐臭がする。
だから人は子供を作るのだと。育んで安心して次の世に逝くのだ。生き物の使命があるとしたらそれだけだ。
京都の街中で腰の弱い老婆がゆっくり亀のように一歩ずつ歩いていた。彼女の時間は通常の100倍はかかっているだろう。目があった。すごくムスっとしていた人でしたが、私がなんとなくニコッとしたらニコッてしてくれた。感動した。
きっと私も更年期の眉間にしわの入った不機嫌そうな顔をしているのだろう。けど、ニコッとたまには出来るくらいの筋力はまだあるのだ。
あの吉田拓郎ソングの「永遠の嘘をついてくれ」で
オッサンがニューヨークでのたれ死ぬという内容だった。
この歌を聞くと団塊の世代はまことに無頼で元気のいい人達だと感動するのだった。
ニューヨークって私の若いとき、憧れだった。ミュージシャンとかニューヨークでレコーディングとかすげえ、とか考えてた。
今はどうなのだろう、今の若い人はニューヨークでひとり芸術をきわめて死ぬとかカッコいいとか思うのだろうか。
ニューヨークどころか 京都のド田舎でも埼玉でも千葉でも、福岡だろうが
これからは一人で死ぬなんて珍しくもなんともない時代が来た。