完全にグロッキー
あの絡まれた日より咳が止まらなくなった。悪夢ばかりで眠れなくなり、当然体力はガタ落ちで、貧血状態かつ熱が毎日出た。
早く医者に行かなければと思いつつ日々の仕事で精一杯で最低35度の日中、10分歩いただけで命の危険のありそうな屋外。行きつけの市民病院は距離があり、待たされること必須で、今の状態では行けそうにありません。
グーグル先生で検索すると何ということでしょう。歩いて数分のところに呼吸器内科があるというではないか!電話をしたら予約不要だという、おお!僥倖!幸運!
しかし、いまどき待ち時間なし予約なしで入れる医者があるのか。今考えたら危険フラグがたっていた。しかし、当時の私は1分でも早くこの症状を取り除いてほしいという思いで一杯でした。
モンスター老婆ラリーサか
たどりついたその町医者は、住宅街にありました。医院とは分からない謎の佇まいです。玄関には膨大な鉢植えが処狭しと置いてあります。
その鉢植えのせっせと世話している老婦人が私を見て
「あらあ お電話の方ですかあ お待ちしていましたああ」とヨボヨボと話しかけます
この顔は見覚えがあります。
ラリーサではないか。
ラリーサは、イケメンの外国人の接客をしていると、どこからともなく現れるモンスター客です。何処から見てもアジア人日本人の団塊前後の老婆ですが
「私の名前はラリーサです」と言い張ります。
自称世界各国を渡り歩き数か国語をペラペラしゃべれるという。
外人さんと私の間に入り、通訳をしてやると言い勝手に会話に加わりますが、どう聞いても日本語です。最初は外人さんの友人か何かかと思いましたが通りすがりだけらしい。いつの間にか、お客様と一緒に記念撮影などしている。
そのあと、ラリーサが注文するのかなと思いましたがその様子はない。病的な肥満と半浮浪者の薄汚れた顔に点のような眼のラリーサ女史。そのブタのような小首をかしげ「通訳をしてやったんだからお礼が欲しいなあ~」微笑みながらブリッブリッとします。冷気を感じながら、よくよく聞くと、どうやら現金が欲しいらしい。
さらには今外人さんと一緒に撮った画像クレ。それも現像したものが欲しいという。現像するのもお金がかかります。客でもないあなたにどうして?しかしその瞳は揺るがない澄んだ輝きを放っています。遠い昔、小学生たちに駅で「100円頂戴」と当然のように手を出してきた名物ばあさんを想起させます。現像はしないけどメール経由で画像くらい添付でお送りしますよ、と言いました。例によって追い払うためにメルアドだけ入った名刺を渡したら、携帯電話を持っていないのか扱いが分からないのか何も連絡がありませんでした。
しかし、その後、ラリーサは何度も出没し、商売の邪魔をし、お金をねだるのです。
いくつかの御店、場所でラリーサが店員に親し気に話している姿を見ました。いかにも常連で仲間で、店員の一人、という様に。なごんでいるようでしたが、その渦中の店員さんの気持ちを考えると気の毒でなりません。
つまり、ラリーサは商店街や町の店に最初は客のように入りこみ、長時間おしゃべりし、買い物をしないで、更には現金をたかったりしている乞食婆さんだったのだと分かりました。
ノイローゼのあまり見間違う
その町医者の入口にいる婆さんがラリーサだ
こんなところにもいるとは
ひっ
と叫びました。でもよく見ると似たような体型と年代というだけで違う人物でした。あの年代の老婆の区別は付きづらいですね。
私はあれ以来、団塊以上の老人を見ると恐怖で震えるようになっていたのです。吐き気もします。ストーキングや政治宗教勧誘、言いがかり、セクハラ、タカり行為を想起してしまう。偏見だとは承知していても、身体がそういう反応になってしまう。つまり(老人に限る)対人恐怖症です。高齢者がすべて犯罪者モンスター予備軍に見えるという事態に陥っていました。
ラリーサはモンスター老人の中でも可愛い?部類ですが、二度と会いたくない人間の一人には違いありません。
とりあえず、その病院の受付嬢(?)であろう太った老婆はラリーサとは違うのだ違うのだ、と自分に言い聞かせながら病院に入りました。
町医者の内部
中は更にカオスの空間になっていました。
病院というより、古びた旅館のようです。鉢植えが処せましと置かれ、埃をかぶった謎のオカンアートが満載。壁には謎の標語がびっしりと貼られており、全て手描き!です。
「健康ボケない体操」「世界各国のありがとう一覧表」などです。そして、そこの医者が大昔に新聞に掲載されたのか、その記事の切り抜きが貼ってある。あまりに古すぎて字がつぶれていますが。
待合室で待つ人が退屈しないようにとの計らいでしょうか。
漫画も大量にありました。手塚治虫や石ノ森章太郎の最初のシリーズで、私は咳をしながら、初版本だったら結構なお宝になるなあ、と思いました。
ありがたいことに待合はクーラーがかかっており、熱と咳で朦朧とした私を休ませてくれます。雑多だけれど、掃除は行き届いており不愉快ではありません。ラリーサモドキの婦人が掃除しているのでしょう。なんだか懐かしい雰囲気です。
いまどきの個人病院は、受付や待合室を業者がプロデュースしているので、オシャレできれいな商売っ気たっぷりのところが多いです。
このような雑多な昭和、終戦直後のような雰囲気の医者はもうない。
私の子供の頃にあったような気がします。
無礼講の街医者
うとうとしていると、別の客が入ってきました。杖をついた老人です。受付も通さず、ずんずんと診察室に入ります。
あれ?予約の人なのかな?と思いつつ、その後も数人の老人がそんな風に診察室に入っていきます。診察券のcheckとかどうでもよさそうです。中からなごやかな声がします。
数分したら、私の名前が呼ばれました。
入ると、診察室には全ての老人がいて、くつろいでいます。
10年ものとも思われる剥き出しの白い下着の上に白衣をまとっただけの爺さんがいます。彼が医者のようです。
「どうしたんやあ~」と震える手でカルテを書きます。いまどきカルテ!それもドイツ語で書いてますぜ。すげえ。
私の診察がはじまりました。
え?部屋には一杯患者さんらしき人がいますよね。その前で問診するんですか。プライバシーや身体が丸見えじゃないすか。
同室にいる老婆達は当然のようにお茶を飲みながらこちらを見ています。
ラリーサモドキは「もうちょっと待っててなあ~この人しんどいみたいやしい」と老人たちに言います。どうやら私の様子を見て、早く診察してやらねばとの配慮をしていただいたようです。ありがたや。しかし、他の患者をそこに置いたまま視てくれるのか。そりゃ移動するのも大変な風な方々であるのは分かりますが。
色々壊れていて古い
何度も壊れては修復したであろう手動の古い血圧計をさらに輪ゴムで固定している。それをガッシガッシ操作し
「わあ~60しかないやん どうしたん」と言います。
いやそれ絶対壊れてるから!
「どこすんどんの~」
…この近所です
「おとうはんおかあはんはなにしてはるひとお」
…いや結婚しているんで、父母は地元にいます
「どっから越してきたの?兄弟は何人?」
…いやそれ診察と関係ありますか?
「ないけど聞いてもええやろ」
…
「さあ聴診器あてるから上着脱いでえな」
…
このあたりで普段の元気な私なら、とっとと帰るところですが、咳で目の前がぼやけている。もうプライバシーやらどうでもええわ。はよ視て薬ください。
老人が私の口を開けさせ、昔なつかしい金属棒を突っ込みます。
ああ、昭和にかえったようです。
しんどいことばっかしたらあかんえ
「つらいねえしんどいねえ」
…
「あんはん無理してはったんやなあ」
…
「いつでも来てえな いつでも視てあげるからね」
…はあ
「毎日暑いからなあ しんどいことばっかしたらあかんえ」
…。。。
回りの老人たち、ラリーサたちは微笑みながら頷きこちらを見ます。
なんだか涙がにじんできました。
こういう風な家族っぽい温かい雰囲気はもう何十年ぶりでしょうか。実家は揉め事が多すぎて全員離散していて、こういう御爺ちゃんお婆さんのいる空気はもう幼少時の思い出のみだ。
「わし80になるけど毎日医者やっとる」
…そんなんすか
「今でも警察とかの定期健診請け負ってるんよ」
…犯人ですかポリスですか
「両方ね。どちらも可愛い患者さんやで~」
…そうなんですか
「トローチ飲む?処方するよ」
…いいです。
こんなにヨレヨレでも楽しそうに診察している御爺ちゃん。優しい震えた手でゆっくり身体を診てもらうと不思議な癒しを感じます。
優しい老人さんたち
インフォームドコンセントやらプライバシーやらでキリキリしている現在の医療現場が無味乾燥なものに思えてきました。私も「こうあらねば!」という余裕のない固まった気持ちでいましたが、
医療現場ってこんなに優しいものなんだと、幸せな気持ちになりました。
室内にいる患者さんは御馴染みさんなのでしょう。仲良しで思いやっている雰囲気です。診察とは関係ない雑談を私にもしてきて、最初は警戒していたけど、なんだかホノボノしてきました。
ああ、そうか、老人さんってこんな美しい温かい人達だった。デイケアのボランティアでもそういう人達だったじゃないか。
老年まで人のために尽くそう仕事しようとしているお医者さん夫婦。家族のように微笑む他の患者さんたち。
「トローチ舐めるといいよ処方する?」
…マツキヨで買ってあるんでいいです。
「血を採ったらもっと検査できるえ。どう?」
…いいですいいです
この爺さんに注射される勇気は出ません。さすがにやばい。ブラックジャックがコートの中に忍ばせてたであろうような古い道具類を前にしている爺さんの手が残念そうに震えています。
廊下で薬を待つ間、泣けてきました。
自分が自分が俺が私がって騒ぐ団塊モンスターは一部の人だけで、悪い人ばっかりじゃない。本来、人は、高齢者は良い人の方が多いんだ。
年をとるってステキなこと、こんなに優しいもの利他的なものなんだな、と思い出しました。
老いることを嫌悪したらダメだ、こんな人達もいるんだから、ありがとうありがとう、もう一度人を老人さんたちを信じられそうだ、ありがとうございます。
よかった、この町医者に来てよかった。
薬を出してくれた
ラリーサモドキはお医者さんの奥さん兼受け付け、どうやら薬剤師らしい。
「トローチ入れとく?」と聞いてきました。
これでトローチを勧めてきたのは3回目です。よほど棚にトローチがダブついてるんでしょうか。
私の薬を窓口で用意しているらしいですが
気が付けば1時間も待たされいる。ちょっとこれはおかしい、忘れてるんじゃないか、言った方がいいかなと思ったら、ようやく処方されました。
▼こ れ だ
この袋に包んである薬。何十年かぶりに見ました!
中には半分に折ってあるのもあります。こうやってひとつひとつ全部包んでいたら、そりゃあ時間がかかるでしょう。様子では老人さんの患者さんばかりなので、飲みやすいようにとの思いやりなんでしょうね。これを心をこめて包んでくださったのね。泣けます。
しかし、この古いタイプの袋に入れると薬効がなくなるから禁止されたとか聞いたことがあるけどいいのかな。
そしてこういう古い医者のシステム、奥さんが薬出す、このように薬局と医者が一緒になって処方するのもアカンって法律で禁止されてはいるんじゃなかったかな。医者じゃなくて調剤薬局で薬出すのが今の主流だよね。
ま いいか。たぶん、古い医者は特例として認められているのかもしれない。
調剤するとき薬の内容を説明しなくてはいけない
という法律を守ろうとしてか、袋に手書きで書いてくれている。
読めない!読めないよ!
他の老人さん患者もボチボチ帰るのを拝見しましたが、お金を払っている様子がありません。他にも若い患者さんがいましたが、少し様子が変です。
どうやら生活保護や福祉関係を中心とした顧客が多いのかもしれません。
私の支払いも信じられないくらい安かった。初診で1週間分の薬込で通常の半額以下です。どういう仕組みなんでしょうか。
効かなかった
もらった薬の袋を見て、夫と二人で笑いころげました。
久しぶりに見た妻の笑顔に夫もほっとしたようです。ありがとう。ご迷惑おかけしました。大丈夫。あんな御爺ちゃんがいるんだから。きっと私はまた人を信じてやっていける。私も利他的な生き方ができるよう、また少しずつ頑張るから。
薬は最初の数日は効いたんですが
どんどん熱もあがるし、咳は増すばかり。
どうしてだ。抗生剤とか入ってたじゃないか。あんなに丁寧に包んでもらって処方してもらった薬が効かないわけないでしょう。
きっと私は風邪じゃなくてアレルギーや気管支炎ではなくて、もっと悪い病気になったのだろうか。ネットを見るとありとあらゆる恐ろしい病名が並んでいます。
だめだ、自分はもうだめだ 咳で眠れない。強烈な暑さで、空気がウルトラQのオープニングのようにサイケに歪んできます。
夫の強いすすめもあり、普段行っていた市民病院に行くことにしました。
普通の市民病院
市民病院は町医者のノンビリとした温かい雰囲気どころではなく、患者が溢れかえり慌ただしく動いています。看護師さんも走りまわっています。そう、これが病院というものです。
ああ、あの御爺ちゃんに血を検査してもらったほうが良かったかな。癒されるあの顔にまた会いたいな、と思いながら診察を待ちました。
市民病院ではベルトコンベヤーのように素早く色々診てもらいました。今の大病院はシステム化され次から次へと効率的に診てくれます。診察だって雑談なんてしてる場合ではありません。
壮年のいかにも現役な医者は眉をしかめて私を診察し、なぜか緊急扱いで点滴を受けることになりました。
点滴の中身は抗生剤です。
私「あの、一週間前に町医者さんで抗生剤とか処方してもらったんですが、こんなに何度も大丈夫なんでしょうか?」
市民病院の医者「それってどんな抗生剤?」
掲載している画像を見せました。医者は鬼のような表情になり吐き捨てるように言いました。
「ありえない。それ全然効かないタイプだから!」
ああ、やっぱり。なんとなく感じていました。まごう事なき や ぶ だったのだ。清々しいほどに。あの町医者のラリーサモドキ老夫婦は。
1か月かけて治った
…市民病院でもらった薬は強烈に効きました。
抗生剤を景気よくぶちこんだ点滴で汗が滝のように流れ免疫が回復してきました。日を追うごとにどんどんよくなってきました。咳も減り熱も下がってきました。
結局、完治まで一か月、咳と熱で倒れこんでいた。
あの町医者に行かなければもう2週間は早く元気になっていたことでしょう。
恨んではいけない 優しい気持ちを取り戻せたんだ 感謝すべきだとは思いつつ、
やっぱり老人なんて信じない
と思いました。あの町医者にはあれから一度も足を踏み入れていません。