実際下半身を見てしまうよね
しつこく先日の島根県のダビデ像にパンツ事件についてひっぱります。すいませんね。
こちらのようなサイトの見解を読ませていただくと、ダビデ像が公衆にあるのは、おやまあ^^なかなか、と思うわけです。
だって、教科書や美術史の本に載っていると、左のような、立っているだけのハダカの少年です。が 高さがずいぶんあるそうです(私は実物を見たことがない)ならば拝するに、下から見上げることになるわけですね
実際、彫刻を見る人は、局所をクローズアップして見ることになります。
ほんまに目のやりばに困ることだろう。
毛糸で編んだパンツやブラジャーを着せてやればいいのです。京大の折田先生のように人気が出ることでしょう。
美術館にずっといるからエラそうなのだ
私は美術史専攻でしたが(もっともツブシが効かないムダな分野です)
卒業後もう何十年と美術館に足を踏み入れておりません。何故なんだろう?
美術館というハコに入っているから芸術品、という感覚に違和感を覚えるような気がする。デュシャンの「泉」ではないですがミュージアムという魔力、バイアスがかかってしまえば
なんかよくわからないけどすごいんだな
的なありがたがる感じになってしまう。
いまや猫も杓子も「アタシ、アーティストなの」と言ってしまえば「別枠」に入ってしまえる時代です。ミュージアムというハコ、額という四角に囲われるのは、いわばそのアーティスト宣言に近いもののような気がしていた。
元々日本にはミュージアムはなく民芸や襖絵など、用途や生活に密着したのが芸術だったはずなのに
明治に美術館を作ってからなんかヘンな感じ。複製芸術が既に席巻している時代に、コミックや映像、CG、ライブアートが動いて生き生きしているのに。フェルメール追っかけカモオバさんよろしく財政難の美術館業界のために散財するのも悪くないが、そういうハコにお金を払うのってどうよなんて思っておりました。(なんてエラぶってますが、要するに金欠だっただけです)
で、しかし
この、ダビデ像やヴィーナス像といったアカデミックの極みの「お芸術」
彼らはルーブルに入っているからスゴイのだ。
そうじゃなきゃただの「チ○ポ」に過ぎない。
美術館という境界線
明治に気鋭の若手画家が日本のタブーに反して西洋美術の影響を受け裸婦の絵を描き、展示しようとした。すると警官が飛んできて女性の下半身に布を巻いた。
腰巻事件というやつです。この方のサイトが分かりやすく詳しい▽
「脱ぐ絵画 日本のヌード1880ー1945」展(東京国立近代美術館)を見た
今回の島根のダビデとどう違うのか。日本人進歩してない、と思うのは尚早です。
これは美術館という「芸術」の「ハコ」に入れて展示しようとした、そこに公衆と芸術家の対立葛藤があるのです。
つまり、価値観の変換。「美しいものばかりがある」と明言する場所にハダカを展示すること。いや、それは猥褻で秘するものだとする従来の日本の価値観とぶつかりあったのでした。(実際、絵としては「春画」という数倍も猥褻なものが既に出回っていた)
AKBさんの
坊主にしてお詫びだとか、おっぱいを幼児の手で隠す
とか 今となっては、ワザとやったんだなと皆分かりますが
この姑息さ露悪さ。してやられて騒いで観てしまった。
悔しいですがこの手法そのものもアートと呼ばざるを得ないのではないでしょうか。 会田誠展:天才でごめんなさい | 森美術館
には18禁の部屋があるそうです。ものすご人気らしいです。行ってみたい。行きたいなあ。これこそ入場料を払う価値があるでしょうね。
私が美術館が苦手なのは、人ごみがすごいからもある。かつてドラクロアやモナリザを観に東京行ったら、人だけ見て帰ってきた。その思い出が足を遠のけていただけかもしれん。森美術館ってやっぱ人多いのですか?
二宮金次郎はただのサボり
昨日、対して日本の「二宮金次郎の美しさ」についてチラッと描きましたが
我が母校にはありました。日本人の清らかさ、勤勉さ、謙虚さが現れていて、素晴らしいですよね。京都の芸術センターの明倫小学校跡には、実にかわいらしい金次郎があり、心が癒されます。
あの像は今でも、各小学校にあるのでしょうか。あれは「貧乏でも勉強の志を忘れない」という教訓ですよね。今の時代にはマッチしないし、何かやりながら何かをするのがいいことだと、子供が勘違いしたら教育上よろしくないのではないか
冷静に考えたら
仕事しながら勉強するなんて迷惑千万ですよね。
以前、とあるラーメン屋の店主が店内にNHKの英語会話講座を流しっぱなし、ラーメンを作りながらリピートしていたのにはまいりました。
味はというと、普通に美味しかった。