更年期から墓場まで

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映画『沈黙 -サイレンス-』遠藤周作原作 感想その4 逃げるは恥だが皆でやれば怖くない

踏み絵をするたびに謝まりゃいいもんちゃうで

ネタバレですが、映画『沈黙 -サイレンス-』遠藤周作原作 感想その4

なんでこうもキチジローは裏切るのか。こんなひどい奴なかなかいやしません。だんだん腹が立ってきて、後ろからどつきたくなる。そのくらい胸糞悪い嘘つき弱虫卑怯者、裏切り者。

この映画・小説『沈黙 -サイレンス-』の目玉キャラは、そのDQNキチジロー(吉二郎?)です。

窪塚洋介さんにしか演じられない存在感のあるキャラクター

この窪塚洋介演じるキチジロー 聖なるロドリコ神父たちの裏主人公、イエスに対するユダ的な役割を演じています。

このビー玉のような瞳。子犬のように神父を追いかけます。

腹たつけど、かわいいですね。。

後日談で、浅野忠信さんもキチジロー役希望だったとのことです。

「沈黙」スコセッシが語る、窪塚洋介や浅野忠信ら日本人キャストは「私の家族のよう」 - 映画ナタリー

浅野キチジローも素晴らしいでしょうが、窪塚洋介のこの眼と存在感。今回の映画で、もっとも忘れられないキャラクターです。

裏切り者。ユダ。この人物がいたからこそ、成り立つ小説

キチジローは悪役ではありません。

じゃあ悪役は誰?拷問を行う奉行かもしれないですが、そういうわけでもない。ちゃんと明確な理由がある。歴史の不思議さです。皆それぞれの役割を生きています。悪役がいない映画なのに、悲惨なんです。

キチジローがいなければただのお涙ちょうだい歴史小説となりはてます。

題名の「沈黙」の意味もキチジローあってこそ。裏切り者の青年、キチジロー。親兄弟が信仰のために火に焼かれても自分は踏み絵を踏んで逃げおおせる。そんな自分を許してくれてまた告解させてくれて信仰を導いてくれようとした神父たちもサクリと密告。仲間が水攻め惨殺されても自分はヒョイヒョイ踏み絵を踏んで十字架に唾を吐いても生き延びる。

自分の命惜しさに逃げるんなら逃げておけばいいものの、やっぱり仲間や信仰を捨てきれず舞い戻ってくるのが腹立たしい。

「俺はクリスチャンだあ~神父さまあ、俺を許してくれえ~」

とまた獄舎にやってくる。今でいう発達障害とか何かでしょうか。自分が他者の信頼を裏切ったとか全然分からないんですね。私もよく女子間のタブーを破っては「?」となるので。

神は何回までキチジローの裏切りを許すのか

何回ウラギルねん。聖書ではキリストは罪びとを

ペトロがイエスのところに来て言った。「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。(マタイ伝18章21・22節)

とあるんで、7×70で、490回ですか?

要するに、謝るたびに無限大に許しちゃれや、という寛大さです。神父もそれにそって何度も何度もキチジローを許します。(内心めっちゃイライラ)

クレアラシルがいくら返品可能だとしても何回も返してはまた申し込んで使いを繰り返してたら、顧客台帳ブラックリストに載ると思いますがね。

キチジロー、この摩訶不思議な複雑怪奇な男がいなければ

「どんなに神さまの言うこときいて信仰を貫いても神さまは沈黙してる黙っている。だから神はいないんだな、信仰なんて無駄」という結論になるところです。

「沈黙」の題名の主語は”神様”です。信仰を持つ民衆が殉教しても神は彼らを助けない声をかけない。黙っている。沈黙している。敬虔な信者相手でもそうですが、キチジローのような男が何度裏切っても神はうんともすんとも言わず沈黙。それが映画のテーマなのです。

なんで神は黙っているのだ。シカトしているのだ。と。

裏切るから分かる信仰の神秘

原作者遠藤周作さんが、自分の化身だとも言うキチジロー。

沈黙(新潮文庫)

沈黙(新潮文庫)

 

 

普通なら何度も裏切る人間はだんだん信頼できなくなります。嘘をついたり人を貶める人がいたら、仲間はずれにしたり、昔で言えば村八分、今はやりの疎遠・絶縁をせざるをえないでしょう。

しかし神様は違うようです。どうしてなんだろう。

考えました。たとえば家族、夫婦喧嘩するじゃないですか。たとえば、靴下ちらかさないで欲しいとか。でも何度も同じことする。何度もそれで喧嘩する。でも許しちゃう。しょうがないな。家族だから。愛してるから。とりあえず何度も喧嘩したあげく10年目には靴下!と言ったら自分で洗濯カゴに持っていくぐらいはしてくれるようになった。しょうがないな、それでまあいいかという落としどころが見つかった。

そうか、神さんはキチジローのこと、家族のように愛してるんだ。バカな子ほど、かわいい?そういうことなの?

裏切り者への落としどころがこれか、というラストでした。

映画の後半、踏み絵を踏んで傷心のロドリコ神父。彼にキチジローは召使として寄り添います。

「ありがとう、一緒にいてくれて」

とロドリコはキチジローに言います。そのシーンは観ながら涙がブワと出ました。

みんな死んだ。俺だけだ。裏切った俺には何もない。イエズス会からも籍も抜かれた。友達も死んだ。もう国に帰れない。神も俺を許さないだろう。

しかし、眼のまえにキチジローがいた。ロドリコは心底ホッとしたに違いありません。

共にいてくれる友がいた。一人じゃなかった。自分を罠にはめたこの卑怯で弱い男こそが友だった。もしかして神の化身だったのかもしれない。ボロボロになっても自分のそばにいるこいつ。彼こそがキリストイエスなんだと。

物語、最後の最後にキチジローは…。

ああ、そうか、だからこそ、神は沈黙している、けれど神は生きている、神は愛なんだ、ということになるのか。と合点しました。

映画のラストは小説とは少し変えてました。根幹は変わりないと思います。観てほしいです。

日本人はキチジロー化していく

どうしようもないキチジローです。が、先日書いたとおり、以後、その他の切支丹達も踏み絵を踏むことに慣れてきます。

そうして人々は踏み絵を踏んで難を逃れていきます。

表面上は仏教徒、心の中では隠れキリシタンとして時代をしのんでいくのです。

潜伏キリシタン 江戸時代の禁教政策と民衆 (講談社選書メチエ)

キチジローは特異な日本人ではありません。

作者および日本人の象徴がキチジローといえるのです。

より民衆的な宗教への変質へ?

この時代以後は本部のイエズス会から神父が来ない。ますます鎖国が厳しくなります。指導者がいなくなった、キリスト教の信仰はだんだん変節していきます。

隠れキリシタンは先祖信仰とかとごっちゃになり、観音さまとマリアさまは合体。水面下で隠れて信仰しなくてはいけないからしょうがないのですが、まさに日本らしい混沌とした進化を遂げていくのです。

弱いもの、受け身で依存的な人々はどうすればいいのか

キチジローはとても受け身です。自分からは神への忠節を誓ったり身をもって証をしたりしない。なのに神父や神の愛は欲しがる。

クレクレくんです。

本来、聖書とは能動的な信仰のものです。聖書の頭につく新約旧約、の「約」は「約束」の約です。

小型新約聖書 詩編つき - 新共同訳

でも弱い者=民衆は約束に耐えられません。

神の要求に応えるにはあまりにも弱すぎるからです。

弱いもの=日本人の象徴 キチジロー

一方的に強いすごい誰か=神に与えられる「おかげ」「現世利益」的な信仰・宗教は民衆が大好きなもの。それもカンタンな教理なものが好物なのです。

カンタンな教理だから民衆は盛り上がる

だからこそ一向宗は国の転覆を図れるほど、巨大化した。禅にはできなかった。

禅はインテリの宗教だからです。かつて元寇のとき禅宗の高僧が危惧してました。仏教が禅の理知的な教理からはずれ、現世利益的なオカルト拝み系に民衆が走ろうとするのを。禅は「おかげ」や現世利益や不思議魔法を望むものではない。座禅等、修行を通し自ら求めていくものです。

しかし、民衆は、仏像の顔を観るだけで、御経の一節を唱えるだけで、病気が治ったり極楽浄土に行けるようなの、シンプルな「おかげ」が好きなんです。

今だって、例えばアドラー心理学が好きなのは一定の層で、その他はスピパワーストーンを持ってパワースポットめぐるのが好きじゃないですか。

 

アドラーは難しい、自分を変えたり考えなきゃいけない。けど、水晶のブレスレットは占い師にお金を払うだけでいい。持っていたら、彼氏ができた!その方がいいよね。そういうものです。

現世利益おがみ「おかげ」は、大勢を虜にするシンプルな教えです。

キリスト教もそれと同様の迎えられ方をしたんです。信じるだけでパライソに行ける、身分の区別なく、ロザリオや聖画を偶像的にあがめたり。神父もそういった「おかげ」的民衆信仰をちょっとやばいと捉えている光景が映画のエピソードがあります。

だからこそ島原の乱は一向宗以上の結束力と民衆的な熱狂で起こったんです。

南無阿弥陀仏を唱えたら極楽浄土 イエスを信じて殉教したらパライソに行ける。パライソには年貢も苦役も飢えもない。と。

貧しくて無学で弱かったら「来世」=パライソに行こうと思うのは当然じゃないですか。飢えることもない。殉教して十字架に張りつけになったらマリアさまとイエスさまが優しく自分を褒めてくれるんですよ!先の見えないブラック企業で20時間サービス残業するよりはパライソさ行くだ!って思っちゃうことあると思います。辛すぎますが。。

キリスト教がアジアの地で民衆的に根付く。そのためには、より現世利益的なオカルト方向に走るしかないんです。

西洋的宗教=約束 アジア的宗教=「おかげ」

本来キリスト教とは、神と人との約束のことです。

契約。契約は相手と自分の約束ごと。約束は対等です。どちらかが一方的に寄りかかり甘える依存関係ではありません。義務を果たすから約束は果たされるのです。神父たちは神との約束を果たすために伝道にきた。しかし、キチジローは契約・約束の概念などなく、神への甘え、依頼心だけです。

見ていて本当にイラッとする態度ですが、これが日本人そのものといえます。

映画でキチジローを観ながら、あんな奴許せないとほざいていても、同調圧力で踏み絵を踏んだ覚えのある人は多いのではないでしょうか。学校会社のいじめ、自分も加担しなくても同調した振りをして止めないなら一緒のことです。戦争中の隣組体制、戦後のアメリカ占領、PTAや町内会。表面上は協力して踏み絵を踏んで、心の中では舌を出して。でも表だって変革はしない。怖いから。自分が可愛いから。だれかが変えてくれて自分を甘やかしてくれるのを待っている。救い主が再臨したら、本当は踏みたくなかったんですよお~許してえパーデレって言うのです。

約束や契約なんてこんな甘えたヤツとは結べません。

かの隣の国も日本に甘えてるんです。もしくは無知で分からない振りをしてタカろうとしているのか。

一神教の約束や契約という概念がアジアで浸透しないのはどうしてなのか。

神との約束(契約)になぜ我々日本人は耐えられないか

キリスト教の新旧約聖書とイスラム教は同根の一神教です。そして、中東、砂漠の国で生まれた宗教です。

砂漠は何もない。草木もない。水もない。とてもとてもシンプルに神と向き合います。よそ見をする隙間がないのです。

だから神と人との一対一の契約、約束が成立するのではないでしょうか。

ナショジオ ワンダーフォトブック 砂漠 (ナショジオワンダーフォトブック)

広がる砂漠で一人、聖書の預言者が神の声を聞いた。灼熱のあまりボ~として空耳か本当に聴いたのか分かりませんが、とりあえず、聖典があるので、聞いたということにしましょう。神が砂漠で人間に声をかけなかったら、そして契約を人間と結ばなかったらキリスト教・イスラム教・ユダヤ教はできなかった。

この三大一神教は非常に能動的な宗教なんです。神は人に土地を未来を祝福を与える。でも人間も義務を約束を果たししてくださいね、という強固な契約なんです。

洗礼や告解はこの約束がベースにあるんです。キチジローみたいに裏切るのを前提に結ぶもんじゃないです。

その約束は

浮気(他の宗教に走る)しないでね 裏切らないでね 他人の前で俺のこと知らない彼氏っちゃうとか言わないでね 俺だけ見ててね!いつも俺のことだけ考えててね^^

破ったら皆殺しやで

と。西野カナもビックリの束縛っぷりです。

そうです。キリスト教の神は嫉妬する神、束縛する神、人格を持った神なんです。

その神の概念は分かりにくくないですか?

アジア人・日本人としては。人格神?神に人格があるって道真公とかそういうこと?くらいでしょう。

神さまってのはせいぜい、お天道さまであり、私たちをそこまで拘束しない。愛さない。要求しない。何となくそこらじゅうをありがたくただよっているような感じじゃないですか。お賽銭出すといいことがあるかも?受験のときとか。商売繁盛、家内安全。

重い強い愛の人格神。もしコンビニも山も川もない砂漠に一人いたら、その声はとてもクリアーに、そして大きく聞こえたでしょう。

しかし、アジアは違う。砂漠ちゃう。

霧、雨や風、雪、桜ひらひら。スコールどぼどぼ、花や鳥がいっぱい、虫もブンブン飛んでいるアジアの状況で、一人だけの神の声を聴くのは難しいのではないかと思うのです。

神のお告げがあったとしても、「?なにか誰か言った?」と気が付かないんではないか。豊かな自然の中で、雨季の台風がきたり、地面から瑞々しい草が生えて、尻にカビが生えて痒くなってきたら預言もおちおち聴いてられない。

だから日本、アジアには一神教が根付かないのではないかと思うのです。

気候の問題で!!

一人の神を裏切っても八百万、ご先祖さまや、神社に仏像。まあいいか~という具合です。

家にも聖書はあるは正月の破魔矢、各種寺、神社のお守り、クリスマスのそのときのまんまのツリーとか各種色々あります。まさに「沼」です。来月はバレンタインですしね。

バレンタインデー - Wikipedia

ヴァレンタインも殉教者の記念日だそうです…。

アーメン。

 ▼最後の晩餐のチョコレート型w イケメン神父に贈りたいですね。

 

chinmoku.jp

 

沈黙と美: 遠藤周作・トラウマ・踏絵文化

沈黙と美: 遠藤周作・トラウマ・踏絵文化

 

 アカデミー賞はほとんど掠りませんが、映画人気は徐々に上がっているようです。

注目度2位に浮上しています。こんなマイナーな題材なのに。宗教とは関係なくとも

裏切るか裏切らないか、そして何を選択して自分は生きていくのか

その普遍的問いの返答の一端がこの映画にはあるのです。