更年期から墓場まで

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映画『沈黙 -サイレンス-』遠藤周作原作 感想その2 イケメンのいる長崎は今日も雨だった

ロケの失敗?ここは日本・長崎じゃない

引き続きネタバレ満載で遠藤周作さん原作 映画『沈黙 -サイレンス-』の感想を書いていきます。

昨日の記事▼

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1月21日に日本公開された遠藤周作原作 映画『沈黙 -サイレンス-』。

非常に優れた映画ですが、一つだけ惜しいと思ったのが、ロケ地です。台湾だそうですが、熱帯雨林すぎます。

霧やシダ植物が多すぎて東南アジアみたいです。あまりにジャングルすぎるので、途中で少ししらけました。日本でのロケは色々な事情で困難なんでしょうか。

長崎の街の光景も、どこかしら変な感じです。それでもあの「ラストサムライ」よりは日本的文化に忠実なのでハリウッドの日本観も少しは進化しているのでしょう。

長崎は今日も雨だった

前川清さんは歌います。


長崎は今日も雨だった(高音質) 内山田洋とクールファイブ

映画は日本的な背景でないのをごまかすため?などと思いたいくらい雨だらけです。水分が多すぎです。海は荒れ雨がじめじめ降り山が霧で覆われてます。実際 長崎県の降水量は全国12位だというので、多湿な地域なのでしょう。だからそう荒唐無稽な光景ではないのかもしれません。

あなたひとりにかけた恋
愛の言葉を信じたの
さがしさがし求めて
ひとりひとりさまよえば

二人のイケメン神父たちが歌のごとく長崎の雨の中をじめじめと漂い逃げ 霧の中を泣き叫びます。キリストをイエスを信じてここまできたのに、誰もいない。神はいない。沈黙している。なぜ、なぜなのよ♪

映画『沈黙 -サイレンス-』とは

この映画『沈黙 -サイレンス-』遠藤周作原作は、江戸時代、切支丹迫害の頃ポルトガルの司祭が日本に潜伏侵入した物語です。

島原の乱が収束して間もないころ、イエズス会の高名な神学者であるクリストヴァン・フェレイラが、布教に赴いた日本での苛酷な弾圧に屈して、棄教したという報せがローマにもたらされた。フェレイラの弟子セバスチャン・ロドリゴとフランシス・ガルペは日本に潜入

映画の主人公、二人の神父はフィクションです。が、二人の師匠であるフェレイラは実在します。実際背教神父として資料が残っている。

クリストヴァン・フェレイラ - Wikipedia

島原の乱は寛永14年(1637年)にはじまり寛永15年(1638年)に完全収束しました。

物語の二人の神父がポルトガルからマカオ、そして長崎に密入国したのは1638年と小説にあるので、まさに島原の乱の直後。殺されに行くようなものでしょう。

まさにバカ怖いもの知らずですよね…。。。。。

二人の司祭のこと

 二人のポルトガル宣教師が香港マカオを経由し、日本・長崎に苦労して侵入します。

主人公のロドリゴ神父はアンドリュー・ガーフィールド。この人、スパイダーマン役をしてたんですね。アメリカ的イケメンです。ポルトガル人的容姿ではないですね。

わざとまさにアメリカ人な顔にしたんじゃないかって思うほど、まさに現代的容姿です。浮いた感じです。調べたらユダヤ系です。特別映像インタビューでは

あらゆる人が正しくあらゆる人が間違っていることだ 答えはひとつではない

と述べています。まさにユダヤ的な宗教観倫理観です。(ユダヤ人の議論は人数分以上の回答が導きだされる)

一方、もう一人の神父、ガルペ神父を演じるアダム・ドライヴァー。

彼らは自分たちが勇敢だとは思っていないだろう。ただ自分が信じることに立ち向かっただけだ

と言います。どちらも真理です。

ドライヴァーにはアメリカ同時多発テロ事件をきっかけにアメリカ海兵隊へ入隊したという経歴があります。ガーフィールドとは違う、より鮮明でシンプルな宗教観を持っているのではないでしょうか。

ドライヴァーの容姿は、ガーフィールドと対象的。南欧・スペインやポルトガル的雰囲気がある…、それもルネサンス以前のこの頃のイコン、キリストの容姿に似ています。面長で黒髪に近い茶色。

ラージサイズ・イコン 全能者イイスス・ハリストス(イエス・キリスト) 31.0x25.3cm 額入(ガラス無) ロシア製

▲こういうのがこの頃の一般的イエス顔です。アダムさんの容姿に似てますね。エルグレコっぽい長い顔。

ガルペ神父という役柄も、まさにキリストの磔刑、その純粋な殉教そのものです。主人公ロドリゴ神父がキリストの似姿のように死にたいと願い続けながら出来なかったのに対し

友であるガルペ神父は信徒たちのために死にました。まさに名もなき民衆のために身を投じて死んだキリスト。神の子体現する象徴ではないでしょうか。

ロドリコ神父はどんなにこの友の死を悲しみ、その姿に続こうと願ったことでしょう。

仏教には五体投地という考え方があり、同じように身を神仏に捧げます。しかし、その根本思想は違う。キリスト教のそれ=迫害からの殉教は、教えの中でも根幹・最高峰です。迫害されて死ぬことはイエスに習うこと。信仰の完成点への到達です。

しかし長崎の信徒たちの拷問死は、実態は違う。そんな華々しいものではなく、ありえないほど悲惨で汚く、惨めなものです。

ロドリコはどうしてこんな惨めな死を弱い民衆・貧農たちがしなければならないのかと疑問を持ち始めます。何故神は彼らに呼びかけないのか、沈黙しているのか、と次第に絶望してくるのです。そこが殉教した友人との違いです。

長崎の切支丹(キリシタン)迫害は善悪二元の単純なものではない

この島原の乱は、西洋人の思うヒロイズム=キリスト教への弾圧 健気な信徒たちへの迫害 という単純な図式ではない。

島原の乱の死者はカトリックも殉教者とは認めてはいない。宗教的精神的なことではなく、政治的な側面が非常に強い。武将が多く肩入れしていたからです。その蜂起は4万人程度の規模というから、単なる百姓一揆ではありません。日本国内の巨大内乱・戦争そのものだという位置づけなんです。

島原の乱を許したら一向一揆のように長引き広がり、国の危機に陥ります。ましてや、キリスト教には西洋諸国が肩入れしてますので、オランダエゲレス、宣教師たちを通じて武器をどんどん持ち込み大混乱になる。今日のアフリカ諸国がそれです。長い歴史でキリスト教の侵入と植民地化を許したあげくの果てが現在の姿です。

日本は閉じて食い止めたんです。そのままキリシタンを放置したら内乱どころか、せっかく徳川政権で統一された日本が崩壊してしまう。キリスト教国に占領分割されてしまう。だから徹底的に切支丹達を弾圧根絶やしにする必要があります。

長崎は切支丹大名の土地であった

古くは、長崎は、関ヶ原のキリシタン大名の小西行長(こにしゆきなが)の支配下にあった。

小西は西軍だったので、惨殺されました。しかし、結果、この土地は切支丹の精神的土壌が非常に強い。

その系譜・関ヶ原の西側を非常に徳川政権は弾圧するんです。現在でも、西軍に肩入れした土地(例えば大阪)への江戸時代の差別・迫害が影響していて結果、部落問題や貧困問題と結びついています。関ヶ原というのは現在まで非常に陰を落としている戦争です。

西軍側のキリシタン思想があった長崎。年貢も非常に厳しいものとされました。つまり徳川政権によるいじめです。

映画の貧農たちもありえないほどの貧しさ、乞食といっていい惨めさです。ドブネズミのような貧農たちが押し寄せ、身を寄せ合って暮らしている。小魚をわずかに口にするシーンが何度も出てきます。

西軍側の思想系譜を弾圧する意図で過剰な年貢を取りたてた。その厳しさが一層、民衆のパライソへの信仰、切支丹信仰への傾倒を促したともいえます。

キリスト教を許す=(イコール)徳川政権の崩壊 関ヶ原の西軍側が盛り返すかも? 国の転覆

に関わるんです。

だからああまで拷問したりするのは、別に西洋人の邪教が嫌いだとかでなくて、ほんと仕事として、ああしなくちゃ、長崎全体が戦争、内乱状態の危機にあったため、しょうがないのでした。

日本は鎖国=他国への壁を作った

イッセー尾形さん演じる奉行 井上筑後守 が非常に老獪に狡猾に事にあたるのは仕事なんですよ。そういうのが好きなわけじゃない。「業務」なんです。

だから単純に弱いものいじめ、そしてその弱き群れを助けようとする司祭、という単純な視点で観たら肩透かしをくらいます。映画はひっくり返してきます。

トランプさんが壁を作ると騒いでますが、日本には天然の壁、海があったんです。それでも宗教はしつこく海を越えてやってきて、民衆の心を変えて内乱を起こすのです。海があったから日本は助かった。それが明治まで国を守ってきた。この時代、鎖国を選んだのは英断です。

グローバリゼーションは人々を一つにして、普遍的な正義や真理をもたらすと西欧諸国は考えました。しかしそれは幻想であると薄々気が付いているではないですか。現実に同じ土壌の一つの神を信じるイスラムとキリスト教国。彼らが互いに微塵も分かりあえていない。それどころかEUを瓦解させようとしているのだから。

思想の違う、宗教の違う 人種の違う人々と分かりあい、助け合う兄弟姉妹のような素晴らしい世界があればと誰もが思います。それを目指したのがEUだったのに…。相互理解以前に国が崩壊してしまいます。

日本が鎖国を完全成し遂げたのは1673年(延宝元年)のことです。この物語の約40年後。その鎖国に至る経過がWIKIにも出ていますが、この物語は、その鎖国政策の渦中のことです。ここで国を閉じなければ、現在の日本国はなかった。国はとっくに滅びていたに違いありません。

島原の乱には幕府側にオランダが肩入れしています。その時代、ポルトガルvsオランダ状態にありました。まさに日本を舞台に、キリスト教を隠れ蓑にヨーロッパ諸国が覇権を競ってたわけです。

日本からしたら、ええかげんに出ていって!もうガイジンはいらんわって言いたくなるでしょう。

ロドリコと井上の会話は現代日本の有様を述べている

そうした防衛や政策の実務を担う井上筑後守にとっては、二人の神父がさぞかし子供に思えたでしょう。

純粋な師匠への愛と信頼、キリストへの情熱溢れる青年神父のヒロイズムや勇気など、ちゃんちゃら可笑しい、と。

ロドリコ神父と井上は禅問答のような問いと議論をします。

井上「ある大名には4人の妾がいる。その妾は互いに嫉妬しあい争い見苦しい。だから大名は4人とも放り出した。この4人がイギリス・ポルトガル・オランダ・スペインだ」

神父「その中から一人正妻を選べばいいではないですか?」

井上「ヨソの国から妻など選ばなくてもいい」

神父「妻が貞節でありさえすればいいのではないでしょうか?」

井上「一人の醜女の深情けほど重くて嫌なものはない。そしてその妻は子供を産まない」

これは例え話です。日本国に、列強の思惑と下心があるキリスト教という妻はいらないと言っているんです。そしてこの宗教は重苦しい愛情を押し付ける。そのくせに日本の風土や土壌に合わないから子供ができない。つまり、根を張らない、と。

これは非常に上手く日本国の姿を指摘している問答です。

優しくユーモアがあり恐ろしいイッセー尾形さん演じる井上筑後守

井上も、仕事として迫害拷問はするものの、元はクリスチャンだったことがあるんです。なので、彼らの純粋さに惹かれずにはいられない揺れ動く情もある。

井上はポルトガル密入国神父たちの青臭い理想の言論に微笑ましく付き合い、かつ見下げ、

司祭たちの深層意識が傲慢であればあるほど、その弱さを見抜き、転向を預言するのです。

「ロドリコは必ず転ぶ」

転ぶ、とは棄教のことです。踏み絵を踏んで転向することを意味します。

井上は神父たちが憎いわけではない。神父たちが棄教・転向したあと、住処や仕事、そして妻子をあてがい、日本で寿命を全うできるよう手配してくれます。

しかし、決して、切支丹に戻ることは許さない。その萌芽が見つけたら容赦なく拷問死させます。

めっちゃ仕事のできるオッサンや。。。

その知性と合理性・老獪さ・怜悧さを持つ不思議な日本人奉行、井上筑後守。イッセー尾形さんは、実に上手く演じておられる。

その微笑みは優しくユーモアがある。オスカー賞候補だそうな。

blogos.com

西洋人の思う殉教と日本のそれは違うのか

映画の公開後、日本人の演技が評価されていますが予告編には西洋的な観点が色濃く表れています。

見比べてほしいのですが

日本国内向け▼

アメリカ版▼

アメリカ版は、二人の司祭の信仰への勇気やヒーロー性を強調してます。

反対に日本版は日本キャストの表情を映している。そして民衆民俗的な土着感情・被害的な光景が映し出されます。

キリスト教徒はヒーローか?

アメリカ人は自分が勇気のあるヒーロー(英雄)になることを好み、日本人は忍耐強く無名な地味な民衆が”仲間で助け合い”殉職することにカタルシスを覚えます。その嗜好の違いが予告編に出ていると思いました。

しかし、アメリカ人の好みに関わらず、原作は(映画版も)決してキリスト教の正当性、伝道のヒロイズムを前面に出すものではありません。

遠藤原作にはポルトガル人伝道師・司祭たちの傲慢さと日本という国への蔑みへの批判が込められています。(映画はやはり白人の傲慢さという描写を控えめにしています)

俺らは白人でオマイラの知らないすごい普遍的な真理を知ってるんだぜ。わざわざ教えに来てやったんだからありがたく思えや!

という白人優劣主義への強烈なアンチテーゼがあるのです。

そのあたりが原作小説がノーベル賞が取れなかった理由だったんでしょうか。ノーベル賞は白人の決めるものですからね。

このアメリカ版予告編は、そうした白人感情に配慮しているのかなあ?なんて思いました。

勇気のある信仰心の強いまさに保守的キリスト教徒たち(トランプ支持者?)が恐ろしい土地に冒険乗り込み啓蒙指導に行く。コミックヒーローみたいにね。崇高な精神性を持つ俺らクリスチャンすげえぜ!と讃えている傾向があるのでは…。

そういうの大好きですよね、アングロサクソンやアメリカ人って。だからイスラムに余計なお節介をしたり「教えて」やろうとかするんですね。そういうのがもう限界だからテロが起きまくり、アメリカや欧州は仕掛けた責任を放棄し、自分ら正しい白人のことだけ考えよう、壁を作ろうという云いだしたのです。厄介な人らですよ。

彼らがこの映画をどう評価するのかとても興味があります。未開人のところに行って教えた俺らすげえ踏み絵を踏ませた日本人許すまじって言うのかな。

日本は沼だ

日本は自身で知ってるんです。

自分たちはヨソの国のものを受け入れているようで受け入れてないって。キリスト教のクリスマスは恋人のパーティで、ハロウィンは子連れの仮装大会なんですよ。で大晦日には寺で鐘をついて正月では鳥居をくぐりおみくじに一喜一憂するんです。

西洋人にはまさに日本は根が腐っている沼といいたいでしょう。これが日本です。すいませんね。ジメジメしていてどっち付かずであれこれ信じて、同時にどれも信じないんです。

日本は沼地だ。日本という土地の風土や土着の宗教がある。どんな植物もそこでは根を張らない。腐っていく。

「未開の貧しい信仰を知らない日本人という土人にただ一つの真理を教えてやる。」司祭たちもそういう傲慢さがあるんですね。残念ながら日本にはあなた方の信じるただ一つの普遍的な真理が分からない。あれもこれも善であり悪であるというドヨンとした曖昧さが性にあうんですよ。

いつの間にか、キリストは大日さまになるんだよ。。。。(古来からある太陽信仰)

諸星大二郎の隠れキリシタンのマンガ読んだことあります?

妖怪ハンター 1 地の巻 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)

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 パライソさ行くだ!っていい感じに日本独自の土着「祭り」に変質しています。

このマンガは怪奇マンガなんで、おどろおどろしいです。ちょっと現在のキリシタンの人はこのマンガは嫌がるかもしれませんね。。。。

信仰は守られていた

その後迫害を潜り抜けた隠れキリシタンたち。彼らは19世紀に信教の自由が回復するまで潜伏し、信仰を守り続けた。その数約1500名。驚くべきことです。

小説・映画でもあるように、切支丹だから迫害されるのではなく、邪教だから弾圧されるのではありません。

海外から司祭、指導者が入りこんでくるのが問題だというのです。

だから日本人の末端信徒が踏み絵をして転ぶ(転向)を宣言しても、拷問を止めない。司祭が棄教すると言わないかぎり。司祭、指導者が問題なんです。海の向こうからきた醜女の深情けを持つ外国人たち。

物語の最後、最後の司祭だとされるロドリコが棄教した後は、切支丹たちは暗黙の了解で放置されたと。

カソリックはローマを頂点とする全世界組織だから、司祭がもうこない、ローマと縁が切れたらぜんぜん危険じゃないんですね。

地方の一宗教として、表面上禁止はされているけど、前ほどは拷問されないのです。

宗教の持つ危うさ、善と悪を正面から描いた映画『沈黙 -サイレンス』

映画は日本の頑固さと集団ジメジメ体質・そして白人の弱さ傲慢さを痛烈に突いてます。原作よりも控えめですが…。日本という豆腐のような、捉えどころのない国民性を批判すると同時に、白人思想の他国への「普遍」な真理を教えてやろうという姿勢がいかに愚であるかも映画は語りかけます。

この曖昧さが残る深淵なラスト。原理主義者の多いアメリカなどキリスト教国の単純明快な信仰心には受け入れがたい部分があり、賛否が分かれることでしょう。しかし、そうしたハリウッドの白人偏重主義が蔓延している中で、この表現は勇気がいることだ。スコセッシ監督ってすごいですねえ。

 

沈黙 (新潮文庫)

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