更年期から墓場まで

子梨・更年期BBAの私見偏見吐露雑談ブログです。

辻村 深月『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』と 沖田 ×華『透明なゆりかご』、そして 高樹 のぶ子『光抱く友よ』感想 その1

祝☆病み&闇ブログ化w

似顔絵ブログ(http://ameblo.jp/hagitani-naoko/)を先月からやってます。

そこで自分のようやくギリギリのラインで社会人としての良識と人間らしい明るさを存分にアピールしているので安心してこのブログで闇へのベクトルを吐露しようと思います。明るい似顔絵記事を期待した方は上記リンクへどうぞ笑

女子の深い闇の小説を読む

辻村 深月『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』を知ったのは、こちらの対談より。

『ギャングース・ファイル 家のない少年たち』 刊行記念対談 辻村深月×鈴木大介「私たちは誰のために、書くのか」

鈴木大介さんの新書は数冊読んでいます。原作漫画は読んだことないです。いわゆる施設で育った子供たちの貧困についてです。この記事の中での辻村さんの言葉に衝撃を受けて小説を読んでみました。

弱者がどうしましたか

私は基本的に弱者の物語が好きではないんです。(かといって強者が好きなわけでもない)

「私はこんなに特別、こんなに可哀想、こんな悲劇的な物語が私の人生があるの」と語る人は、たいてい、自己愛境界例とか発症していて、こちらに強烈な依存とマウンティングをかけてきて、多大な時間と労力を奪われた経験が少なくないからです。少しでも目をそらし、適当に相手をすると「あなたには同じ”物語”(経験)がないから分からないのよ!ひどいひどい!」と大騒ぎする。

彼女が世界の中心でいくら喚いても無視することにしています。一言でも反論したら大喜びで粘着してくるので、静にフェイドアウト。内心「同じ物語など有してたまるか。あなたがワアワア同情を買おうと騒いでいるその何十年もの間、私がいかに耐え訓練し工夫し読書をして仕事をして思考を重ね、あなたのような悲劇の主人公物語を毛嫌いして、亀の歩みで努力してきた”普通”の偉大さなど爪の先ほども理解できまい、あなたこそ”わかる”まい。グヒヒヒ」とつぶやき、足の裏のチリを払うのだ。(傲慢ですが内心だから良いであろう)

断言します。ただの「被害者」の物語は物語ではありません。

彼らは加害者がいなければ物語を紡ぐことはできない。悲劇の物語が解消されたら、次々と新たに加害者を探しだし、その相手にぶら下がり、ゆすってまわる。(毒親を糾弾した後は、職場の上司をパワハラといい、彼氏をモラハラといい、彼らとの依存関係から抜け出さない)確かに、そういう加害被害関係があるのは認めるし(私だって覚えがあります)、加害者は糾弾されてしかるべきですが、同時に自分が自律する道を探さないと対決して喧嘩できる技や逃げる技を磨かないと、いつまでもドツボから抜け出せない、時間を浪費するだけよ。自分の生い立ちの不幸、障害や病気をさも個性です!すごいでしょ!可哀想でしょ!これが私、ありのままの私~♪見て見て!同情して!と作る作品は物語ではない、と思うのです。とはいえ、市場(マーケット)としては否定しません。そういうのが好きな人がいるから所謂「感動ポルノグラフィ」という分野が成り立ち、定期的に「余命●月の夫、妻」「難病でも●●!」●時間テレビ!という番組が作られ、何億とお金が動くのです。(障害者は「感動ポルノ」として健常者に消費される–難病を患うコメディアンが語った、”本当の障害”とは

本当に「物語」を紡ぐ人は、声高に叫ばない。誰に見られることも称賛されること承認されるこをも望まず、自分と家族、愛する者のために”現実的”に地道に生きている人だけが紡ぐものだ。日常の何でもないフツーの生活をしているその辺のおじさんおばさんお姉さんお兄さんが持っているのだ。

デパスを飲みすぎて目がうつろになり、毎晩女友達に6時間も電話しているあなたの物語は、本当の物語ではありません(なんて書くと、差別だ!とメールがきそうですが。治癒後に暖かい心を取り戻したとき、はじめて物語が物語として成立するのです)

普遍的に人をじ~んとさせる「物語」は客観的な健康な視点から生まれるものだと思う。

普遍的なマイノリティ感覚が紡がれた物語

じゃあ、悲劇は物語ではないかというと、そういうことではなくて、

いかに悲劇的なマイノリティの物語でも、そこに普遍的かつ客観的な愛情の視点があるかぎり、人の胸をうつのではないかと思います。今回読んだ作品は、その悲劇の中に普遍的なユーモア(と書いていいかわかりませんが、あえて書きます。ユーモアには客観性があるからです)が散りばめられていました。

『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』と『透明なゆりかご』。なんでだか、この二冊を同時に読んでしまった私の精神状態は健康ではなかったかもしれません。生理前やったしw涙がどんどんでた。泣きたくないのに、痛い涙。その水分が流れながら張り付いて、それが塩素や硫酸のように皮膚を刺すのでした。

女子(という言い方は40代の私には馴染みませんが女子、とずっと書くことにします)

すべての娘は、自分の母親に等しく傷つけられている

という言葉が、この辻村 深月『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』に登場します。

この言葉、否定する女性はいるのでしょうか?そんなことない!私のママはすてきで、私は愛されているの!愛されていたの!と声高に言える人は実は少数派なのではないかと思うのですが、どうでしょう?多かれ少なかれ、ママに母に傷ついた経験のある女子は圧倒的多数だと思うんです(断言します)でも声高に言えないだけで。なんで声高に言えないかというと、自分も今や母親だし、自己存在を否定することにもつながる。そして、やっぱ育ててくれた母親に感謝しているから。自分を棚に置いて苦労して育ててくれた母親をほんのわずかでも心の中で否定するなんてとんでもない!と感じる一方で、毒親ブームに乗るほど憎んでいないけど、少なからず「傷つけられた」ことはあった。その傷、今でも疼く、うん、かなりね。結構ね…。という人は圧倒的に多いんじゃないかと思うんです。どうですか?私もそうです。

毒親とまではいかないかもしれないけど(大体、毒親って何?その基準なんてどこにあるの?)確かに、女が女として女に傷つけられた。母という一番身近で大好きな人に。

女子問題が近年クローズアップされている

すべての娘は、自分の母親に等しく傷つけられている

この重くて、痛い小説。「母殺しの小説」を自分のものとして受け止めない女子はいないのではないかと思います。(男性は、読んでも少しも共感しないと思います。やべえオンナタチ、女子怖えええ~というくらいじゃないかとw)

マイノリティの物語のはずなのに、女子の普遍的な物語であるとは一体どういうことでしょうか?

ここに、『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』が暴きだした女子問題(女性問題とは書かない。フェミくさいからw)があると思います。

その前哨戦に、この数年の間に「女子本」が発刊された。さまざまなジャンルの人達がタブーとされた「女子問題」を少しずつ語りはじめた土壌があるのです。

きっとそれは、誰もが胸に秘めていたけど、知っていた、当たり前だと思っていた、生傷の感覚。年をとっても、いつまでも塞がることのない辛さを、公の場で語りはじめた。普遍的なもの(少なくとも女性の間では)として考える風潮が出てきたのです。

この20年、日本が不景気だったからかもしれません。ド貧困女子は昔からいましたが(はい私です)、それ以前のバブルの頃には、大多数の女子が豊な生活を甘受していて、女性特有の矛盾や悲しさ、被差別感覚を語ることがなかった。せいぜい、教室の窓ガラス壊して回ったジャンキーの歌が流行ったくらいでしょう。

それが経済がだんだん下り坂になり、非正規雇用者が大多数を占めるようになり、皆がそれぞれの立場を見つめなおすようになった。

インターネットの普及も関係していると思います。匿名で発言できる掲示板ではじめて、その辺にいるあの人も、あんなことを考えていたのだと知りうる。話あう。タブー視されていた問題も共有されやすくなったのではないかと。従来のマスコミは批判を恐れて記事に出来にくかったけど、ネットで議論が進めば、公然の問題となるから。

大阪の虐待死事件にみる女子問題

女子問題の議論活発化へ向かうトリガー。それは、数年前に起きた、ある虐待事件から起きたのではないかと思います。

折しも、週刊文春(2015年6月4日号)の記事に取り上げられていました。

殺人犯との対話 人が人を殺す「その理由」CASE6 下村早苗 大阪二児虐待死事件

あ!と思いだされた方も多いと思います。そう、二人の子供を放置して死なせてしまった若い母親の事件です。

2010年7月30日に発覚。大阪市の風俗店で働いていた下村早苗(23)のネグレクト(育児放棄)により亡くなったのは長女・桜子ちゃん(3)と長男・楓ちゃん(1)だった。幼い二人はゴミだらけでエアコンも切られた部屋にわずかな食糧を置かれたのみで閉じ込められ、餓死していた。約1ヶ月後に発見された際、既に遺体は腐敗していたという。早苗は二人を放置したまま遊び歩いた揚句、その様子をSNSに投稿するなどしていた。13年に上告が棄却され、懲役30年が確定した。

この事件が報道された時、私は思わず「元夫と祖母祖父はなにしとんねん!」と叫んで、夫はきょとんとしていた。夫が「なんでそんなに興奮してるんだ?遠くの関係ないひどい事件じゃないか」と鼻息荒い私を訝し気に見ていました。絶対に男にはわからないと思った。

23歳の女性が、育児を放棄して逃げ出した。

その1行で多くの女性に何か感じるものがあったのだと思うのです。

そのセンセーショナルな事件はワイドショーで連日取り上げられ、その多くは早苗を人非人、鬼!と糾弾するものでした。

私も彼女はひどいと思う。友人だったら、胸倉掴んで、泣きながら、なんで!なんで!ひどい!と怒るだろう。この「友人」だったら、というのが女性が女性に共感しうる一体感の複雑怪奇な遺伝子だと思います。自分とは関係ない世界の女性の犯罪にどうして私はこんなに感情移入するのだろう?

それは私だけではなかったみたいです。子供がいない私ですらこうだったのだから、子育て真っ最中の人はどうだったのか。

糾弾の記事と報道が出尽くしたあと、多くの女性誌が違う論調で取り上げました

「私も早苗になったかもしれない」「彼女の気持ちが分かる」と。

オフィスユーという漫画雑誌の人気漫画「斉藤さん」でも、この事件について”同じ女性として”提起するようなストーリーが展開され、賛否両論だったような覚えがあります。

「母性」とは素晴らしいもの、圧倒的に絶対的なもので、それがない女性はオンナでなない、と長い間認識されていた社会。そこで起こった事件。それまでも虐待は多くあったが、表ざたにならなかった。

「特別」で「悪辣」な女性だけが行うものだとされた、「子殺し」。事件が起これば魔女裁判のように断罪されてそれで終わり。大阪二児虐待事件もそうして終わるはずだった。

しかし、その残虐さと悲劇性、母子家庭で母が若いこと、孤独であったことから議論が萌出しだした。「母性」は当たり前で万能ではない、「母性」という言葉で追い詰めないでほしい、という声が囁かれはじめた。

虐待は連鎖するのか

この週刊文春の小野一光さんというライターの書かれた、今回の記事の秀逸は、早苗の成育歴を述べているところにあります。当時、ここまできっちり報道されていなかったように思います。親兄弟や離婚した夫との関係性を暴くことは当時問題があったのでしょう。

とても詳しく、かつ感情的にならず(早苗に同情的にも糾弾的にもならず)冷静な記事でした。 読みごたえがあるので、ぜひ買って読んでみてほしい。

かいつまんで言うと、

早苗の母も、早苗をネグレクトしていた。

という内容です。ああ、そうか、やはりそうだったんだ。きっと早苗のことを忘れられない人は薄々思っていたと思う。

すべての娘は、自分の母親に等しく傷つけられている

アドラー先生は言います。未来は過去に支配されない。人は誰でも幸福になることができる、と。

この現実的かつ厳しく強いユダヤ的な未来志向の心理学の本『嫌われる勇気』という本を私もめっちゃ愛読する一人ですが、アドラー先生、愛についてもこれは等しく当てはまるものでしょうか?

そう、確かに、ある者にとっては未来は今すぐにでも変えられる幸福であり、ある者には違うのです。

愛は、与えられた総量しか流すことができない。

美味い料理は、美味い料理を口にした経験のある者しか作ることができない。味蕾と愛の仕組みは似ています。

この大阪の虐待死事件の早苗が、児童相談所や民生委員とか相談してたら、と断罪するのは大間違いです。大阪やその他の地方の貧困問題を知らない人の意見です。

そもそも、そういうものがある、相談窓口がある、なんて彼女は思いつかないんです。

そこに貧困の原因がある。アドラー先生の言うことは正しいですが、そもそも、彼女が心理学の本など手に取ったりなんてしやしません。自分を救ってくれる本を探して読む力も時間もないんです。ブログで自分の”ものがたり”を語る程度の識字力はあっても、論理的かつ実践的な読書の習慣などない。

私も何度か縁あって関西の貧困問題に接触して気が付いたことですが。法律とか、労働基準法とか民法とか、役所の窓口とか、まったく関係のない世界観で生活してはるんですよ。その限界の果てにいる人は。ましてや書籍に解決策を見出すなんて、みじんも思わないんです。世界がまったく、まったく、世界どころか、宇宙レベルで違うのです。彼らにだけに分かる「地元」世界観だけがすべて。自分の回りの卑近な人達、分かりやすい暴力とか金、ブランド品や容姿での強者、誰に顔がきいてきかないのか、地元での仲間、同じような仕事をするコミュニティ。何かあっても役所より仲間内の強者の言うことなら聞くのです。(確かにその方が書籍より役立つシーンは多々ありますが)それが価値観です。啓蒙するんだとかいう傲慢な感覚では絶対その溝は埋まりません。

早苗は、放置されてきて、放置することを覚えた。放置されない、見捨てられない安心感という「感覚」を知らないんです。誰も彼女に教えない、教えてくれる世界で生きてこなかった。その感覚を一切知らないのに、天から自動的に降ってくるわけないですよ。

チエミとはだれか

辻村 深月『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』に登場するチエミ。

彼女と早苗に多くの共通点を見ることが出来るのではないでしょうか? キャラクターとしては正反対ですが。

チエミは、実母を殺し逃走する。チエミの親友みずほ。みずほの眼を通して物語は展開します。

チエミ。彼女は女性らしい女性だ。控えめで優しい。手芸が得意で心のこもった刺繍を親友の誕生日に贈ったりできる。一昔前なら称賛されそうな女性。地方の農家の娘で、親に決して逆らわない。きっと前時代なら、結婚を回りがお膳立てして、幸せな母親になってたろう。しかし、今は、婚活しなければ、大変な時代。昔でいう「女子力」は、今や通用しない。今の「女子力」はもっと戦闘的かつ肉食的だ。

内向的で依存的なチエミは生きづらい。彼女の友人は次々彼女を置いて先に行ってしまうが、どうすることもできない。彼女は、自分で考え、知識を書籍や新聞などの活字から得るという力が一切なかった。

救いは「情報」に

今風でいうと情報弱者=ジョウジャクでしょうか。どこまでも受け身で他力本願で依存的な女性。

しかし、この物語の救いは、”情報”にありました。

チエミは、大阪事件の早苗と違って「知って」いた。

親友みずほを通じて知った、ただひとつの情報があった。

それが彼女の持っていた唯一無二の「役立つ知識」であり、普遍的な光指す、物語の帰着点ともなります。

だからこそ、早苗のような女性を作らないために、「情報」の告知や喧伝こそが大切ではないかと思います。とりあえず、しんどくて滅茶苦茶だけど、人殺ししちゃいそうだけど、どれだけバカにされても、自分と子供だけは死なずにすむ方法を、休む場所を(最近は女子トイレにDV助けてコールのチラシなどが貼っていますが、もう一歩踏み込んで何かないものでしょうか)

彼女に、彼女たちに教えて!どうか、見て!受け入れて!

私は、チエミだ。

この小説を読み進めながら、何度もデジャヴ(既視感)を感じられずにはいられないと思います。

私は、あの人は、チエミに、あの友人、この登場人物に似ている。と。

数多く出てくる女性の登場人物…彼女らに自らを投影して読むのを止めることができない。 女性性を象徴した普遍的なキャラクターがあそこにもここにもいる。 醜いけど、痛いけど、涙が噴き出てくるけど、愛おしくてしょうがない。

あとがきで島本理生氏が書いています

私は、チエミへ向けられた女たちの眼差しに衝撃を受けた。なぜならそれは、ちっとも珍しいものではなく、ごく身近に溢れている悪意だったからだ。ただし、もっと無自覚に。だからこそ辻村さんの心理描写の的確さに震えた。そして自分にもたしかにチエミのような女友達がいたこと思い出した。愛しさを感じながらも、それ以上に、苛立ちを覚えずにはいられなかったことも。

わたしは、チエミだ。わたしは、みずほだ。

この小説の、引き込みの力は強烈でした。

う~む、書ききれん。続きは後日UPします。

ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。 (講談社文庫)