更年期から墓場まで

子梨・更年期BBAの私見偏見吐露雑談ブログです。

舟を編む

舟を編む

なんのこっちゃ?

言葉は生き物だ。正しくない用法でも、それが人々にとって”生きて”いるなら辞書に載る価値があると、物語は言う。

例えば「やばい」。今どきの若者は「あの服ヤバい!」「この料理ヤバい!」などと言う。それは年配の人が聞いたら?という感じだが、褒め言葉として今は使うのだ。「憮然とした表情」についても、今は本来の言語の意味とは違う用法で使われている、とか。へえ、知らなかった。なるほど。言葉って面白い。

辞書を編纂する編集者たちのドラマ。国語辞典を作る人々の葛藤と青春。辞書の名前は「大渡海(だいとかい)」。エンドロールに三省堂が出ていたので、モデルになった辞書があるのかもしれない。

膨大な言葉。人々の生活や時代に合わせて絶えず変化していく。その総量の巨大さ変化のうねりはまるで海のようだ。言葉の海を渡っていくための舟として辞書は例えられる。まさに舟を編む!作業。

彼らはいつも言葉を集め、生きた定義を検討する。一つの辞書が仕上がるまで、何十年とかかっているというのだ。映画は辞書編集部が辞書を出版するに至るまでの十数年を扱っている。なんと長いスパンだろうか!

整理整頓する仕事

思い出したのは、学芸員資格取得のための修行時代である(そう資格(だけ)は私は持っているのだった!ちなみに有資格者は多いがなる人は極少のお飾り資格である)美術館・博物館に勤めるというとアートに触れ、好きだ嫌いだ良い悪いを言い散らかす仕事だと思っていたがそうではない。(ウンチク垂れる仕事をするのは評論家でありキュレーターではない)学芸員の仕事は、膨大な資料を整理整頓し、延々と写真を撮り、ナンバリングし、記録を取ることである。

映画に出てきていた辞書を作る編集者達に似ているなあ、と思った。

何万語という言葉を延々と調べ続け整理整頓選別、厳密厳格に校正をし続ける。はんぱない根気と整理能力が必要とされる。そんな拷問のような編纂作業を寝食を忘れて嬉々として行う。それを何十年もやり続けるのだから、こういうのは、好きでなくては出来ない。言葉バカ、はっきり言って変人。異様かつ静かなかつ熱い情熱をほとばしらせる人々。それが辞書編集者である。

その情熱には”好きだから”というのがもちろんある。が、社会的使命感が更にある。「生きた言葉」の舟を世に送りだす、という。

通常の雑誌や書籍は2稿程度しかない。(刷り見本である)しかし辞書は5稿あるというのだ。物語の中で、漏れが一つあっただけで、徹夜をして見直すというシーンがある。辞書は間違いがあってはならない。編まれた舟に穴があったら舟は沈んでしまうからだ。紙に刷ってしまって出版されてしまったら直せないのだ!

今や紙の辞書は必要か

しかし、こんな地道な作業で作られてきた辞書があっても、今や強烈な勢いでネット社会になってしまった。この映画を見たから、じゃあ、紙の辞書がすごいから買おうか、とか、ネットを辞めるかというと、それはしないと思う。

私はここ十年辞書をめくることもなくなってしまった。何か調べものがあったら検索したらいいし、ウィキには大抵のことが出ている。大辞林や広辞苑もいつの間にか我が家から消えてしまった。WEB翻訳があるから英和辞典すら消えた。

。。。辞書を買わない一番の理由は加齢ということもあるwあの重量を抱えながら小さい字を老眼に差し掛かった目で調べるなんて正直、ゴメンこうむりたいのですわ。

じゃあ電子辞書ならいいかというとそれも危うい。何かを知りたい時すぐ即座に調べたいときは、大抵の人はネットやスマホで調べるだろう。その言語も、昔ながらの四字熟語もむろんあるだろうが、最近の時事用語流行語を調べるのではないかい?通販で、広辞苑などそうそうたる出版社の辞書が入った電子辞書を中高年向けに販売されていました。が、そこにはそういった用語が入っているとはあまり思えない。たとえば、ORZとか(そりゃそうか)

きっと映画のような辞書の編纂はますます少なくなるだろう。紙の辞書と違いウィキをはじめとするWEB情報は更新改定など数秒でなされる。紙の出版予定に合わせて徹夜をすることも手作業で間違い探しをすることも必要なくなった。枚数制限もないから、取捨選択の吟味もさほど必要でない。

紙の辞書や新聞は責任編集をしているからよりいいんだと思わない。申し訳ないが。ネットは間違い情報も多いが膨大な人の批判に晒されているのと、こちらの見る目、取捨選択が必要だと皆わかっている。ネット社会は意外に淘汰されていると思うのだ。

紙の書籍だって間違いは多いし、間違ってたからと責任を取った話を聞いたこともあまりない気がする。たとえば新聞で誤報をしたから記者が辞任することはあるのだろうか?ネットも紙も人が作るものだから間違いやデマだってあるのだ。ネットは編集者(言葉のプロ)でない人が情報発信できるので、精度が低い、というだけのことだ。出版社が編集者が本を作るから至高だとは私は思わない(質は高いだろうと思うけど)。人々の「生きた」言葉を拾うなら、ぶっちゃけ数名だけの編集者の視野ではなく、ネット上の何万何億という人々で共同編纂した方がいいとも思う。たとえ間違っている情報を送り出す場合が多々あったとしても。

第一、「生きた言葉」「生きている言葉」と連発されるが、何十年もかけて編纂していたら、その長い長い月日の間、生きているもんも死んでしまってたり、産まれて間もない辞書が拾い損ねる言葉のムーブメントもあると思うのですが。日進月歩の言葉の変化にそんなゆっくりしたモノ作りでついていけるのでしょうか。なので「生きた」というならネットの方が生きているような気がする。辞書作りの事業は、今や化石的な印象をまぬがれないような。

日本人はこうしてモノを作ってきた

しかし、この映画に胸打たれるのは、昔ながらの出版体制礼讃だからではない。

ああ、私達日本人は、こうしてものを作ってきた、この地道で細やかな情熱こそが、出発点だ

その点につきるのではないでしょうか。映画の中で、理想の紙のめくり具合を何度も追及する、紙工場の職人さん。生きた言葉のためには体験が必要だと、女子高校生の言葉にファーストフード店で聞き耳を立て、合コンに参加する老編集者。偏執的なほどに、言葉調べ、辞書作りに情熱を傾ける人たち。

モノを作るための職人気質、なりふりかまわず追及しては作り直し。消費者への誠意。責任感。

そうこれが私達の原点

最近ソニーが巻き返してきたらしい。文具や画材を買うことが多いんですが、日本製品の緻密さと品質の良さには、唸ります。洋服も日本のもんは縫製が違うよね。安ければいい時代もそろそろ終わるのでしょうね。

世の中から紙の辞書が無くなる日がきても、こういう誠実な情熱で何かを作り続けることが出来ると思うのです。

二組の若いカップルが登場する

主人公は松田の息子(未だに弟か兄か私には分からない)その彼女には宮崎あおい。冒頓無口な編集者と女板前。二人とも住む世界は違えど、手仕事の職人なのだった。今はもう見られない下町の古い木造、本が山と積まれ、猫が鳴く。そのアパートで恋は育まれ暖かい時間が流れていく。松田演じる主人公の編集者が辞書を編纂するにつれ、言葉の持つ可能性や生命力に目覚め、人を愛し、他人に心を開き、成長して仕事をしていく過程。たどたどしくて不器用で、しみじみして、美しい。

同僚のカップルがオダギリジョーと池脇千鶴。主人公カップルが静なら、こちらは動。チャラくて元気で、口数が多くて、感情豊か。その対比が面白い。

オダギリジョーカップルの方が存在感が強かったように思う。松田&宮崎カップルは、いいんだけどなんとなく、”こけし”のようだなあ~なんて思った。オダギリと池脇はやっぱ達者なんだな。「八重の桜」で新島襄がオダジョーと聞いて、正直落胆してたんですが。ものすごくいいかもしれないなあ。

ちなみに私の一番好きな男優さんは、小林薫さんです。関西弁でない彼もステキだー。しみじみとした存在感に萌えましたわ。

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