更年期から墓場まで

子梨・更年期BBAの私見偏見吐露雑談ブログです。

100年前の炎上事件 ハンナ・アーレント

電車とはそうしたもの

昨夜の地下鉄、ちょうど映画館に向かう最中の、中年女性の怒号が雷鳴のように響いていた

あんた!なんで入口にいるんだ、電車の入り口に立っているのだ!非常識!許さない!

と。騒ぎの渦中を見やると、車いすを押している女性だった。怒鳴られているのは、大学生の男の子である。

車内中が静まり返り、彼らを直視しないように眺めていた。要するに、車椅子を押して出口を通りたいのに、スマホに夢中で気がつかない若者がそこにいた。すんまへんすんまへんと若者は半分笑いながら、その姿に煽られた女性は一層喚いているのだった。

大学生が単純に悪いのよね、ヤングよ、失敗したね

電車とはそうしたものだ。

きっとその女性と車いすに乗っている人は、残酷な扱いをどこかで受けて、その都度、怒らないと気がすまない。それが生き抜くすべになっているのだろう。

私は、イマドキの若者のほうが電車マナーがいいと思っている。妊婦や年配者にスマートにさりげなく席をゆずっている。(少なくとも関西ではそうだ。並ばない騒ぐ割りこむ中高年の多さに比べれば)若い人のその温かい(o^∇o)を見たら、日本の未来は明るいと思う。

たまたま、スマホに夢中で車いすに通路を譲らない若者が目の前にいた、それが大した打撃だったのだろう。「たまたま」と思い許す度量を一切失うほど、どこかで辛い目にあったのだ。

席を譲られないことは差別ではない

私は、長い間アトピーで外見がオバケのようであった。通勤時に全身がふるえる時があったが、だからと言って席を譲ってもらったことなどないし悲しいと思ったことはない。むしろ座れば隣に誰も座らない(笑)あまりにしんどければ欠勤したり電車の時刻を変えたらいいのだと思っていた。アトピーなのは自分のなんか体質とか性格とかのせいで他者のせいじゃない。「わかってもらえない」ことが辛かったことはないのだ。なにより「かわいそう」と言われることが今でも何よりも屈辱なのだった。席を譲られないことが差別ではない、身体を掻かずにいられず粉をふいて醜いから電車に乗るなと言われたら、私も差別だと吠える。

どうも最近は「弱者全体主義」というのがあるのでないかな、と思う。弱者の椅子を競って奪いたがる。弱者産業というのもあるのだ。

弱者であること、うん、大変だ。助けてほしい、一人では乗り越えていけない、体験者しかわからない。そうだよ理解してほしい共感してほしい、ありがとう、わかるって言ってくれて嬉しい。でもタマタマそうしてもらえなかったからってそれがどうしたんだ。

私は弱者というより「ハンデ」という言い方が好きだ。

ハンデは克服できるし、手助けしてもらいやすい。(「弱者」は克服できない)助けてもらいながら自立できる。何よりいいことは「ハンデ」だと思えば競争にも参加できる!

大学に、車椅子の教授がいた。彼を慕う学生には、その椅子はほとんど見えていなかった。ただ先生は、校舎のある高い山の上に、誰かが手を添えて登らないと講義がはじまらないと皆そう思っていただけだ。

みんなが「わかってくれる」社会こそ全体主義なんじゃないの?怖いわ。どうなんだろう。

弱者に優しい社会。その一方の裏側世界のネットでは、タブーが晒され、匿名で炎上攻撃がくりかえされる。

ユダヤ人評論家『ハンナ・アーレント』

映画「ハンナ・アーレント」は100年前の炎上事件なのだった。

今も昔もユダヤ問題は、欧州米国の最大のタブーなのである。

とはいえ、ようやく現在は少しはユダヤを叩きやすい、弱者の責任が問われてもいいかも(つまりイスラエルは強者となった)という状況になったのでこの映画は作られたのではないかと思う。

ハイデッカーの弟子であったアレントは、アイヒマン裁判の傍聴記事に際して

ユダヤ人達にもアイヒマンと同様の思考回路がありそれが、ジェノサイドを引き起こしたとわずかに書いて、その一行がために、世界中からメチャクチャに叩かれたのだった。

被害者の責任を問うただけで、同僚に嫌われ大学をクビになりかけ死ねと投書や電話は大量に届き、会ったことのない同じマンションの住民に中傷され、長年の友人にも拒絶される。

アレントがユダヤ人で、収容所経験者でなければ、ここまで叩かれなかった。何より「知って」いる「当事者」が、同胞が書いたから叩かれた。民族の悲劇に「共感」しなかった、ナチス党員の哲学者の弟子であった「女」で「知識人」であったこと、

とどのつまり、アイヒマンへのリンチに参加しなかった。それが許されなかった。

大人になったらアレントがわからなくなったお

著作の数々を読んだのは20代の時でしたが、当時の私は、こんなのを読みつくした私ってすごい!私は市民の勇気を持とう、「凡庸な悪」にはならないわ!と胸躍らせたもんでしたが

おばさんになった今思った。

やはり、アレントは傲慢だ。哲学って人の気持ちをわかってないわとも思った。

職場で特定の政党への支持を求められたとき

どうしても抜けられない仲間うちで誰かへの中傷への頷きを求められたとき

原発を即時停止が最良であると思えないとき

2011年Kyotoは聖なる場所だから放射能のものが入るのは許さないだとかいうオヤジがウヨウヨいる業界とか

その過程で、それがどこで、誰かに危害を加えてるかもしれない。今食べてる、この安価な美味しい食品、温かなフリース。誰かがブラックな職場で作ったものかもしれん。ブラックでなければその価格にはならないかもしれん。

生活して、給料もらって頭下げて指示に忠実に生きていかなくちゃあいけないのだ。自分や家族を守るだけで精いっぱいなんだよ、凡人になったのよ、私は。いやずっと凡人だった。カントアドルノベンヤミンやアレントを読んでいたら凡人じゃないと思いこむのが若さの特権だと、ようやく気がついたよ。

「凡庸な悪」だなんて言わないでよ

と悲しくなった。

せめて電車で困っている人や幼児連れがいたら譲るようにしよう。かつての私のような身体の人がいたら、その人のプライドが傷つかないように、助けてあげられるような技術を身につけようとか。その程度のカイゼンしかできない、私は凡庸な市民なんだよ。

アレントをはじめ、100年前の米国はタバコを吸いまくっていたんだなあ。どいつもこいつもスパスパスパスパ。

タバコを悪だとキャーキャー騒ぎ立てる現在を見たら彼女は何というだろう。

エレガントにみな、細い紫煙をくすぶらせながら、議論をするのだった。

映画「ハンナ・アーレント」