更年期から墓場まで

子梨・更年期BBAの私見偏見吐露雑談ブログです。

映画「サラの鍵」

ユダヤ人 ヴェルディブ一斉検挙

フランス ヴェルディブ事件

Vélodromeは競輪場を意味する。1942年、ユダヤ人が1万3千人ほど、ヴェルディヴに検挙され、アウシュビッツなどの強制収容所に送られた。ドイツナチスのユダヤ人虐殺については、知られているところ。しかし、フランス国家とフランス人がナチスに加担し、迫害の一翼を担った。(フランス  ヴィシー政権下のユダヤ人迫害について、オランド大統領が謝罪

この映画は、このヴェルディブ事件、つまりフランスの「黒歴史?」を扱っている。

サラの鍵

ヴェルディブ事件の日、少女サラは弟を守るため、アパートの納戸に鍵をかけて閉じ込める。60年たって、このアパートに住むことになったジャーナリスト、ジュリア。アパートは、ジュリアの夫の祖父祖母の所有していたものだ。彼女がふとしたきっかけで、アパートの歴史と少女サラのことを調べはじめる。謎をひも解くうちに、ヴェルディブ事件の悲劇が浮き彫りになる。

真実を知ること

 

真実を知るには代償がいる

というセリフが物語に登場した。

第二次大戦の勝者であり、連合国側であるフランス。友愛と自由と平和を掲げる一方で、こうした事実もあった。「真実」を知ると無傷ではいられない。たとえ、過去のものであっても。

過去と戦争に対して、無関係、第3者であった、現代人の女性ジュリア。でも彼女は、サラの人生を知ることで、生き方を変えてしまう。映画では、この過程、何故そうしたのか、ということが、一切ない。セリフなどで「私は○○と思った」といった説明がない。彼女がいつしか、そうしていた、という状況が映画には淡々と映され、胸を打つ。ああ、そうだろうな、そうするしかないよな、と観る者は思う。

「知る」にはそういう強烈な側面がある。

忘れる?見ない?知らないでいる?

日本人の特性として、臭いものに蓋をする、あるいは、過去を水に流す、といったことが挙げられる。自律してそうな(?)フランス人もそうするそうしていた人々もいる。そうしないと生きていけない人がいる。私はどっちかというと、そっち側、卑怯な人種である。流すのが好きな日本人そのもの。正直、終ってしまったことを知ることで打撃を受けるなら、知らない方がいいんじゃないの?とも思う。流して忘れること、向き合わないことが必要な時期もある。自分を癒し、生き抜くために。イノセントであっては生活できない。

真実を知り過ぎるのは大変だ。私は当事者でもないことに首を突っ込み、酔いしれてさも自分の体験のように触れまわる人種が苦手である。差別や被害を直接受けたわけでもないのに、全精力体力を傾けて共感し喜怒哀楽し、差別を受けた人の立場に立って気持ちを考えろとか歴史を勉強しろ金を出せと啓蒙して回るオバちゃんオジちゃんのことである。しかしだな、その気持ちはとても分かる。「知って」しまえば、当事者になっちゃった、なってしまった気持ちになっちゃう。その影響力だ。

だってね、この映画を見た夜は、モロに当事者な気分になったもの。シーンを何度も反復して、うなされてしまった。直接わ~っとジェノサイドの場面が出てこないのに。めっちゃ怖い映画である。京都三条河原で首切りが散々あったと聞いても全然こわくないのにな。ヨーロッパ、パリは怖いな~あちこち、そういうエピソードがあるんだろうな~なんて思っちゃいましたよ。行ったこともないのにねえ。

もうじき2年になる震災や原発のこととか、流しちゃった感のあるムードが世間にあるけど、まったくもって終ってないのよね。そうしたこと、なんかしら色々考えてしまいました。