更年期から墓場まで

子梨・更年期BBAの私見偏見吐露雑談ブログです。

『無頼化した女たち』水無田 気流

確かに意識高い(笑)

ブロゴスの記事で赤木智弘さんの「それってエリート目線で意識高過ぎじゃない?」というのに、同意します。

この記事は、数日前に出た『「良いお母さん」のレベルが高すぎる日本。働く女性は意識と行動をどうやって変えたらいいの?』という記事への反論なんですが。詳しくは、読んでいただいて。

私は、「良いお母さん」の…の記事は、確かにすごく正しいこと言ってる。わかるけど。なんだかな。なんで救われた気が全くしないんだろうな、と。頑張らないで!といいつつ、すごく努力を強いているダブルスタンダードな余裕のなさが、それこそ女性らしすぎて読んでて辛くなった。

「頑張らないこと」を「頑張りすぎてる」のでは。たとえばリラックスするためにヨガに通うことにした。そのためにパタゴニアで吟味したウェアを買い込み専門雑誌でポーズを検討して…というような。(リラックスしたいならダラけたらええだけやねん!)

コンサルの人が書いてるのかあ。だから講演会の演題のための原稿みたいになっちゃってるのかなあ。現場感がないねん。実際そこまで賢くなれへんでって。

赤木さんの

仕事も子育ても大変だから楽にしようという話なはずなのに、なにか新しい行動を起こして、スキルを身につけて、他者とのネットワークを作るとか、なぜキツさの屋上屋を架そうとするのでしょうか?

という文章で合点しました。

特殊な専業主婦の子供や家事PTAやらへの完璧意識と、働くフェミ系の女性たちの意識高く社会を変革する、という方向性。反対を向いているようで、まったく同じ構造に見えるわ。どちらも「あるべき理想」を誇りあってて現実的じゃない。

なんでそんなに「より充実した素晴らしい理想の人生」を必要とするのか私にもよく分かりません。てきと~でなすがままでグチャグチャで場あたり的な工夫してそれぞれで何とかこの時代を過ぎこせたらいいんじゃないか、と。こういう議論が沸騰するたびに、自分は好きにしたいから他人も好きにしたらいいのにと思う。

男とはどう生きるべきか?なんて誰も今や考えないのに、女はこうあるべきか?どうあるべきか?という話題が尽きないのはどうしてなのか。女は他の女の人生についてあれこれ考えて論じてしまう=おせっかいを互いに焼いてしまうのか。男だって今の時代は苦しいはずなのに。男だから男としてってあんまり考えへんやん。女だけ何で「女」をこうまで真剣に考え込む?そうして、本が次々出て、私は次々買うのか(笑)

女は確かに女ゆえの生きづらさを抱え込んでいた。今も抱え込んでいる人々がいるからでしょう。

『無頼化した女たち』水無田 気流

さて、女(おんな)本シリーズの最先端、まさに真打ち登場といいたい。

無頼化した女たち

現在を生きる女性達の実態と立ち位置ががっつり書いてある。

フェミおたくや団塊ウーマンリブの言う「女性=被差別者」、だから共闘して戦おう、的なひとくくりの女性観には同意できない。そこには可哀そうな私を演じたがる空気、マイノリイティー被害者産業にしがみつき、そこで食べていくためにそう言ってるでしょう?何より古臭くて、「ダサ」くて、違うなって思ってた。

今や女性は多様化して、かわいそうな人ばっかりじゃない。オタクもいれば、犯罪者もいて(その犯罪者も男に虐げられた末の悲しみの犯行とかでなく)ヤンキーや科学者もいる。かつての女性観は陳腐化している。

この本には、まさに、今このニッポンの、女性の「現在の姿」が描かれている。

内容がかなりギュッとつまっていて、読み応えがあり、面白いです。

無頼とは

無頼といえば、新谷かおるさんの漫画『ファントム無頼』を思いだす私は、1969年生まれです。 無頼 とは - コトバンク - Kotobank

1正業に就かず、無法な行いをすること。また、そのさまや、そのような人。「―な(の)輩(やから)」 2頼みにするところのないこと。「単孤―の独人になりて」〈十訓抄・二〉

とあります。無頼な生き方、という場合には2の孤独の意味を指すのでしょう。しかし、女三界に家なしといって、

女は幼少のときは親に、嫁に行ってからは夫に、老いては子供に従うものだから、広い世界のどこにも身を落ち着ける場所がない。

というのがある。つまり昔から女は、ある意味「無頼観」を持ちながら生きてきたのです。

(私の知り合いのクリスチャンの女性が言うに「女は生まれながら十字架を背負っている。女であることこそ十字架だ」という人がいました。言い得ていますが、彼女は娘にそう言い続けて育てて、ついには、娘さんは鬱になっていました。ひどい話です。娘さんにとっては母親こそが十字架だったのです。)

今になって無頼とはこれいかに。

この本のあぶりだすところの、現在の女性の無頼とは、孤独な心理という意味あいに留まらず、あきらかに物理的外見的にも、女性らしくない、いわゆるオッサンくさい「けっ!やってられっかよ!」という態度のこと。

正確には

女なんてどうせどこにも永遠の住処なんてないんやから、好きにやらしてもらいまっせ。

という女性たちが続出した。無頼といえば聞こえがいいですが、、、、、つまるところ

やさぐれた

ということ。

この本は、そういう無頼化した女性たちについて詳細に書かれています。めちゃくちゃ面白いですよ。

現代のすごい女列伝

他人に自分の家を造ってもらうなんてまっぴらゴメン。自分ひとりで自分の王国を作ります。(エルサか?!)あるいは、男の家も子供の家も私のもの、他人の家も私のもの、と乗っ取りを図る女たち。スピリチュアルのアウラの世界に理想郷を見出す者、「ゆるふわ」で生き抜こうとする者、金儲けに徹していく者、整形で本当の自分を見出そうとする者…

上野千鶴子、カツマーカヤマー、中村うさぎ、そして…あの木嶋香苗…(もう数年たったら、あの小保方女史も系譜に加わるのではないでしょうか)

この21世紀は、女の巨大なエネルギーの渦で沸騰しています。女の世界の果て、欲望むきだしの北斗の拳、戦国時代のような体をなしているのでした。優しくて女らしい私の母親の時代…団塊女性の被差別者観とは全く違うのです。

先日、あのアメリカのテレビドラマ「デスパレートな妻たち」というのを観てました。あの奥様方の、良く言えば率直さ正直さ、悪く言うなら剥き出しの欲望や下品さに近いなあ、と思いました。あれは10年前のドラマでした。今VERY妻というのがいるそうな。女性誌で、不倫浮気がファッションのひとつのように話題になるのは、世も末なのか、いや女は真の自由を獲得したのか。

一方、旦那さま方が読む雑誌、週刊●●。そこには女性器の全貌!などという袋とじ特集が組まれる。(保健体育か!?)あるいは、昔の女優たちの若かりしヌード。鈴木京香や山口智子のお宝グラビアとか。そこには新時代の妻たちの心の在り方、属性(肉食化凶暴化)を見まいとする、目をそむけようとする、思考停止の男性たちの姿が見えるようです。昔の君はきれいだったね。今は、もう、穴だけでいい(笑)と。

そして、東電OL

私は、昔からなぜ東電OL事件が女性本でよく取り沙汰されるのかよく分からなかったのです。しかし、40すぎて、なんとなく、ああ、そういうことか、と。

私、30歳まで彼氏も作らずのほほんと一人で暮らしてきたんです。30歳になったら、なぜだか雷鳴のように、結婚したい!という思いが湧いた。男が欲しいとか寂しいとか子孫を残したいとかいうんじゃないんです。かりたてるように結婚を望んだんです。あの時の焦燥感を思いだすと何だったんだろうか、と思います。その衝動は動物的生物的なものか、社会的な承認欲求なのかよく分かりません。あの時は婚活なんて知らなかったけど、やみくもに頑張った(笑)

東電OLが私、とまでは思わない。(そんなキャリア女性じゃないから)そうだ、あのときは、私、普通の幸せが欲しかったのです。

「ふつうのしあわせ」…みながそれを追い求めている。私も探していた。「ふつう」になりたかった。「みんな」みたいになりたかった。

「頑張れば」女性も仕事を持ち、幸せになれると育てた母親達。加えて「女らしく美しく」あれば素晴らしい男性に選ばれて幸せになれる?夫がいて子供をつくれば「必要とされ」寂しくない?もう10キロ痩せたら人は私を認めて称賛してくれる?

嘘だった。

どれもこれもなんてパンクする。パンクしながら溢れながら、追い求めて達成してきたのに、これが「ふつうのしあわせ」なの?ほんとうに?

今も昔も誰も「ふつうのしあわせ」が何かなんてわかりっこないのです。「ふつう」じゃなくていいや、「わたしのしあわせ」があればいい…というか何で女は「しあわせ」でなくちゃいけないの?「しあわせ」でなくても別にいいやん。誰しもハッピーな日とそうでない日があり、それが死ぬまで延々と続いていく日常があるだけでええやん、と、ついに思い至るまで、何年も自分や他者を痛めつけて葛藤してしまいました。

『無頼化した女たち』という本には、そういう私に似た女性がいました。きっと孤独なあなたに似た誰かもいることでしょう。

無頼化した女たち